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豆知識〜天神飾り〜

つるし飾り

すこやかな男児の成長を願う親の心。

上巳の節句(3月3日)は、いにしえでは男女の差別なく、身を清め成長を願う日でありました。志太榛原地方では、男の子に天神人形を贈る習慣があります。5月の初節句より早く、学門の神と賛えられている天神さん・菅原道真公を飾り祝います。
天神人形の「文」と五月人形の「武」。両方兼ね備えて立派な道を歩むよう、すこやかな成長を見守っていきます。

天神様は男の子のお雛様? 〜志太天神よもやま話〜

天神人形の始まりは江戸時代

「天神さん」のモデルとなった菅原道真公は、平安時代末期の著名な学者。没後は学問の神、農耕の神として崇められ、江戸時代には寺子屋を中心に学問や書道の神として広く親しまれるようになりました。

この頃から、全国各地で道真公を象った土の練り人形や張り子が作られ、正月や三月の桃の節句、五月の端午の節句に人形を飾る習慣が始まります。道真公にあやかって、文武両道の逞しい男の子に育ってほしい・・という親の願いが、この風習を生み出したのでしょう。

土人形から衣装着人形へ

江戸時代末期から明治初期にかけては、土で作った練り天神が一般家庭に普及し、志太榛原地区でも多くの人形が製造されました。古いものでは、文久年間(1861~1864)の銘のある人形が発見されています。

その後、人形の胴体が藁になり、布の着物を着せた衣装着天神が誕生します。これが、全国でも珍しい志太天神の始まりです。他では見られない大きな体と豪華な衣装が特色で、「男の子のお雛様」の名前にふさわしい風格と頼もしさのある人形です。

衣装着天神が、なぜこの地区でのみ普及したのかは定かではありませんが、志太天神の発展が、この地区の人形製造業、販売業の発展に深く関わっていると考えられます。

現代へと受け継がれる郷土色豊かな人形

その後、志太天神は郷土色豊かな人形として全国にも名前を知られるようになりました。しかし、今日では伝統的な天神人形を作る技をもつ人形職人の数は減っており、昔ながらの風貌を備えた志太天神は貴重なものになりつつあります。

住宅事情などもあり、お雛様や五月人形に加えて天神人形を飾る家庭は昔よりは少なくなりましたが、郷土色豊かな志太天神をこれからも大切に守り続けていきたいものです。

つるし飾りの意味

郷土の人形志太天神を守り続けるこころ。

江戸末期から明治初期にかけて、旧志太・榛原郡で普及した土製の「練り天神」は、その後人形の胴体が藁になり、布の着物を着た衣装天神へと発展します。大きな身体に豪華な衣装をつけた志太天神は全国でも珍しく、この土地と一部の地域の人形で「男の子のお雛様」として三月または四月に飾ります。

一体でも存在感のある大きなお人形

衣装を着た志太天神誕生の理由としては、当時、この地区で人形の製造販売が盛んだったことが挙げられます。志太天神が飾られた地域は富士川以西大井川以東に限定されており、特に旧志太・榛原郡に集中しているのが興味深いところです。また学問の神様菅原道真公に由来しているというのも、男の子のお祝いとして好まれた理由でしょう。

昭和初期の志太天神は大きいものでは高さが1m近くあり、種類も十二種類以上あったそうです。

伝統の志太天神をつくる技を次世代へ

長い歴史と伝統を誇る志太天神ですが、最近は住宅事情もあり人形も小型化しています。そして、昔ながらの志太天神を作る腕のある人形師も年々減っています。しかし、雛常はこの志太天神の伝統を未来へつなげていきたいと願い、人形師の小宮常弘が昔と何ら変わらない技法で天神様を一体ずつ丹念に作っています。

「人形を一人で仕上げるまでには、だいたい十年の歳月が必要です。若い頃も今も、人形と向き合う時の気持ちは同じ。この人形を親御さんから贈られた子どもさんが、健やかに成長できますようにと思いを込めて作っています」。

人形師の真摯なまなざしから生まれる伝統の志太天神を、雛常はこれからも大切にしてまいります。

和紙を一枚一枚丁寧に貼り合わせ腰の部分を作ります。

腰の部分に、袴をはかせます。

上着となる衣裳を着せ付けていきます。

腕を折り、形を整えて胴組の仕上がりです。

頭を添えて、刀を付け、杓子を持たせて完成です。

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